『酒の起源』訳者あとがきを公開
『酒の起源』訳者あとがき
わさび、抹茶、山椒、黒豆、柚子、梅……。いかにも日本的な食材ばかりだが、じつはどれも日本でクラフトビールの副原料として使われているものだ。『日本のクラフトビールのすべて』(マーク・メリ著、熊谷陣屋・德畑謙二訳、Bright Wave Media、2016年)を参考にさせていただいた。
実際、私もここ数年は柚子のビールを正月に飲むのが恒例になっている。近所のマイクロブルワリーが毎年冬至の頃につくるビールで、麦芽と柚子、ホップのほかに、小麦も使われている。飲むと柚子のやさしい香りを感じ、口当たりは軽やか。アルコール度数が4%と低いこともあって、それほど喉が渇く季節でもないのに、ごくごくと飲んでしまう。
いきなりクラフトビール談義で始めてしまったのだが、こんな話題を持ち出したのには理由がある。第3章のある段落を訳しているときに、独自のビールづくりに挑んでいる醸造家たちのことが頭に浮かんだからだ。その段落を引用しよう。
アルコール飲料を初めて醸造するとき、冒険心にあふれた新石器時代の醸造家はとにかく何でもやってみるという意志の持ち主だったに違いない。混じりけのない洗練された飲料の完成をめざすというよりも、トルコ東部の新石器時代の村々で、気概に満ちた実験家たちが発酵用の大甕の周りに集まっているような光景が思い浮かぶ。果実、穀物、蜂蜜、ハーブ、スパイスなど、手に入った自然の原料を使ってさまざまな組み合わせを試さなければならなかった。主に自分の舌と鼻が頼りだ。そして、出来上がった発酵飲料に最後の審判を下すのは、共同体のほかの住人たちだ。
果実、穀物、蜂蜜、ハーブ、スパイス。これはまさに、現代のクラフトビールに使われている原料そのものではないか(冒頭には挙げなかったが、蜂蜜を原料に加えたビールをつくっているブルワリーも日本にあるようだ)。さいわい現代の醸造家は先人たちから受け継いだ醸造技術や立派な設備を使えるので、新石器時代の醸造家のように手探りで一から醸造法をつくりあげる必要はない。それに今は酵母そのものを手に入れられるから、果実やハーブを加える目的はそれらにすみついた酵母を利用するためというよりも、独自の風味をビールに加えるためだろう。とはいえ、醸造家たちが新たな飲料を生み出そうとする気概に満ちている点と、完成した飲料の出来栄えを評価するのが共同体(地域)のほかの住人たちであるという点は、現代でも変わらない。
フルーツやハーブを使ったビールは日本の小売店ではあまり見かけず、まだまだ珍しい存在だ。でも、人類の歴史を振り返れば、果実と穀物を両方使ったアルコール飲料の醸造というのは「酒づくりの原点」とでも呼べそうなものではないだろうか。何しろこれまでに確認されている最古のアルコール飲料は、中国の賈湖(ジアフー)遺跡で発見された約9000年前の「ブドウとサンザシのワイン、ミード、米のビールを混ぜた複雑な発酵飲料」なのだ。それを化学分析によって見いだしたのが、本書の著者パトリック・E・マクガヴァンである。
所属先のペンシルベニア大学考古学人類学博物館のウェブサイトで、「古代のエール、ワイン、過激な飲料のインディ・ジョーンズ」と紹介されているマクガヴァン。遺物に残った有機物を研究する生体分子考古学が専門で、1990年代には当時最古とされた約7000年前のワインをイランのハッジ・フィルズ・テペ遺跡で発見し、2004年には賈湖遺跡で最古のアルコール飲料を見つけたと発表して、世界中に大きな反響を巻き起こした。さらにヨーロッパや南北アメリカ、アフリカで出土した遺物の化学分析にも取り組むなど、まさに世界規模で古いアルコール飲料を探し求めてきた。その数十年にわたる長大な旅と研究の記録をまとめたのが本書だ。
原書の刊行は2009年だから、本書の内容はあくまでもその時点での情報ではある。とはいえ、世界各地の古いアルコール飲料に関する情報がこれほどよくまとまった文献は貴重だ。
最古のアルコール飲料を探す著者の旅は人類が誕生するはるか以前にさかのぼり、宇宙空間に存在するアルコールや動物たちと酒の関係を探るところから始めている。話を考古学に移してからも、東アジアからシルクロードを通って中央アジア、中東、ヨーロッパへと研究の舞台を変え、大西洋を渡ってアメリカ大陸にいったん足を踏み入れたあと、最後に人類生誕の地であるアフリカ大陸へと帰ってくる。
本書で取り上げられている分野も実に多彩で、考古学だけでなく、宗教や芸術、文学、民族誌、化学、生物学、脳科学と多岐にわたる。とりわけアルコール飲料とともに語られることが多いのが宗教や芸術だ。何千年も前の酒そのものが現代に残っているわけではなく、手がかりはきわめて限られている。だから著者はまず、酒の存在を示唆する祭儀や壁画、彫刻を事細かに調べる。「状況証拠」を積み重ねたうえで、それらに関連する壺や酒器に残った有機物を分析して、科学的な裏づけをとるのだ。
無数の論文、世界中の遺跡や博物館に眠る遺物、そして、さまざまな分野の専門家たち。あらゆる場所に散らばったジグソーパズルのピースを一つ一つ見つけ出し、足りないときにはみずからピースをつくって、こつこつとパズルを組み上げてゆく。「広大なジャングルを切り拓こうとしているかのように感じた」との謝辞の一節には、人類とアルコール飲料の関係を探る苦労がにじみ出ている。たくさんの人々の協力や成果のうえに成り立つ研究でもあるのだが、これこそが、人類の知られざる歴史をひもとく考古学の醍醐味ではないだろうか。
最古のアルコール飲料をめぐる研究は原書の刊行以降も進んでいて、2017年11月には、ハッジ・フィルズ・テペ遺跡のワインよりもさらに古い約8000年前のワインが中央アジアのジョージアで発見されたとのニュースが世界を駆けめぐった。米国科学アカデミー紀要に掲載されたその論文の筆頭著者はもちろんマクガヴァンだ。
インディ・ジョーンズにたとえられているとはいえ、マクガヴァンが探し求めてきたのは、古代の財宝や秘宝などではなく、はるか昔の庶民にもなじみ深かった飲料の痕跡だ。古い壺や杯に付着した残渣(ざんさ)こそが、マクガヴァンにとっての黄金である。著者はほとんどの考古学者が見向きもしなかった「残りかす」に光を当て、私たちをいにしえの酒宴へといざなってくれた。そして、醸造家たちのスピリットは昔も今も変わらないということに気づかせてくれた。過去と現代をつなぐ知の冒険に、読者の皆様も挑んでみてほしい。お酒を飲める方はグラスやジョッキを傾けながらでも、著者が歩んだ研究の長い旅路を一歩一歩たどってもらえたらうれしい。
2018年早春
藤原多伽夫